リライティング日:2024年06月30日
初期人類の生存に有利だった遺伝的特性が、現代では肥満・心臓病・鬱病などのリスク要因となっている。ゴールドマン博士の研究を基に、進化の代償と遺伝医学の展望を解説する。
人類は長い道のりを歩んできました
私たちホモ・サピエンスは、およそ30万年にわたる長い進化の歴史を持っています。初期の人類は、毎日が生き残るための闘いでした。狩りをしなければ食料を得ることはできず、猛獣や過酷な自然環境といった脅威に常にさらされていました。そのような極限状態のなかで生き延びた個体——すなわち、体力・持久力・環境への適応力に優れた者——だけが子孫を残し、その優れた遺伝子は世代を超えて受け継がれてきたのです。(1)
しかし、もしかつて生存に不可欠だった遺伝的特性が、現代の人類にとっては「弱点」になっているとしたらどうでしょうか。ゴールドマン博士の著書「Too Much of a Good Thing」では、まさにこの逆説的なテーマが論じられています。本書は、初期の人類が狩猟採集生活を送るうえで必要とした身体的・心理的特性が、飽食の現代社会においてはむしろ病気のリスク因子に転じているという驚くべき事実を明らかにしました。この現象は進化医学(Evolutionary Medicine)の分野で「ミスマッチ仮説」とも呼ばれ、世界中の研究者が注目しています。(2)(3)
人間は食物と水が乏しい時代に進化しました
初期の採集狩猟民は、食べ物が手に入ったときには残らず完食するのが当然の行動でした。次にいつ食糧が手に入るかわからない環境では、食べられるだけ食べてエネルギーを体内に蓄えることが生存戦略として極めて合理的だったからです。そのため、人体はエネルギーを体脂肪として効率よく貯蔵するメカニズムを発達させました。具体的には、体重の減少を妨げるホルモン(レプチンやインスリンなど)が進化の過程で精緻に調整され、飢餓に備えるシステムが構築されていったのです。(4)
さらに、初期人類は炎天下での長時間の狩りにおいて体温調節のために大量の汗をかく必要がありました。汗とともに失われるナトリウム(塩分)を補給するため、人類は塩の味を好むように味覚が発達しました。この「塩への渇望」は現代の私たちにも深く刻まれており、多くの人が必要量をはるかに超える塩分を日常的に摂取しています。世界保健機関(WHO)は1日の塩分摂取量を5g未満と推奨していますが、日本人の平均摂取量はその2倍以上に達することも珍しくありません。(5)
現代の人類はものがあふれている世界に住んでいます
現代人はもはや獲物を追いかけて何キロメートルも走る必要はありません。スーパーマーケットやコンビニエンスストアに行けば、高カロリーな食品がいつでも手に入ります。しかし、私たちの身体は依然として「余分なカロリーを摂取し、脂肪として溜め込む」ようにプログラムされたままです。この進化的なミスマッチが、世界的な肥満パンデミックの根底にある要因の一つと考えられています。(3)
また、現代人が摂取する過剰な塩分は高血圧を引き起こし、それが心臓や腎臓に深刻なダメージを与える可能性があります。高血圧は「サイレントキラー」とも呼ばれ、自覚症状がないまま進行し、脳卒中や心筋梗塞といった致命的な疾患のリスクを高めます。
さらに見逃せないのが、精神面への影響です。かつて人類は、捕食者に遭遇した際に瞬時に「闘争か逃走か(fight or flight)」を判断するストレス反応システムを進化させました。アドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンが急激に分泌され、身体を臨戦態勢にする仕組みです。現代では日々猛獣に襲われる心配こそありませんが、このストレス応答システムは依然として体内に残っています。仕事のプレッシャーや人間関係の悩み、SNSによる情報過多などが慢性的なストレスとなり、本来は短期的な危機対応のために設計されたシステムが過剰に稼働し続けることで、慢性的な不安障害や鬱病につながる可能性が指摘されています。捕食者に服従したり、身を隠したりする本能が内在化しており、それが現代の心労や鬱病の遠因になっているとも考えられているのです。(6)
進化の代償としての現代病——遺伝的にかかりやすい疾患とは
以上のことから、肥満、心臓病、高血圧、そして鬱病といった現代の主要な疾患は、私たちが遺伝的にかかりやすい素因を持っているということが理解できます。これらは単に生活習慣だけの問題ではなく、数十万年かけて形作られた遺伝的プログラムと現代環境との不一致(ミスマッチ)に起因している部分が大きいのです。
- 肥満:エネルギーを脂肪として効率よく蓄積する「倹約遺伝子」が飽食時代に裏目に出る
- 高血圧・心臓病:塩分を渇望する味覚と、過剰なナトリウム摂取が血管・臓器を損傷する
- 鬱病・不安障害:捕食者への警戒システムが慢性的なストレス社会で過活動を起こす
- 2型糖尿病:インスリン抵抗性が飢餓対策として有利だったが、現代の高糖質食で疾患化する
遺伝医学の進歩がもたらす解決策
現代の人類のDNAが現在の生活環境に適応するような進化的変化を遂げるには、数千世代、すなわち莫大な時間が必要です。自然選択のペースと文明の発展スピードの間には、埋めがたい乖離が存在します。そこでゴールドマン博士が注目するのが、現代医学の進歩、とりわけ遺伝学・ゲノム医学の発展です。
現在の技術では、ヒトゲノム全体(約30億塩基対)の配列決定を比較的速やかに行うことが可能になっています。かつてはヒトゲノム計画に13年と約30億ドルを要しましたが、次世代シーケンサーの登場により、いまや数日以内・数百ドル規模でゲノム解読が実現できる時代です。この革新的な技術により、以下のようなアプローチが可能になりつつあります。
- 遺伝病のスクリーニング検査:特定の疾患リスクに関連する遺伝子変異を早期に発見し、予防的な介入を行う
- 個別化医療(プレシジョン・メディシン):治療法を個人の特定の遺伝的要因に合わせてカスタマイズし、より高い治療効果と少ない副作用を実現する
- 遺伝カウンセリングとセルフケア:自分自身の遺伝的特性を理解することで、食事や運動、ストレス管理など日常生活での最適なアプローチを選択できるようになる
遺伝学をもっと深く理解することで、私たちは自分の身体に対してより寛容になり、科学的根拠に基づいたセルフケアを実践できるようになるでしょう。「なぜ自分は太りやすいのか」「なぜストレスに弱いのか」といった疑問に対して、進化の歴史と遺伝子の観点から答えを見つけることは、自己理解を深め、より健康的な生活を設計するための第一歩となります。
まとめ——進化の恩恵と代償を理解する意義
人類が数十万年の進化を通じて獲得した遺伝的特性は、過酷な原始環境を生き抜くために不可欠なものでした。しかし、環境が劇的に変化した現代において、それらの特性は肥満・高血圧・心臓病・鬱病といった疾患のリスクを高める因子へと変貌しています。この「進化のミスマッチ」を正しく理解することは、現代医学や遺伝学の力を借りてより良い健康管理を行ううえで極めて重要です。ゲノム解析技術の飛躍的な進歩により、一人ひとりの遺伝的背景に基づいた個別化医療の時代が到来しつつある今、進化の恩恵と代償を冷静に見つめ直すことが求められています。
よくあるご質問
Q1. 「倹約遺伝子」とは何ですか?
A. 倹約遺伝子(thrifty gene)とは、食糧が不足しがちだった時代に、少ないエネルギーを効率よく体脂肪として蓄えるのに有利だった遺伝子群のことです。飢餓の時代には生存に有利でしたが、食料が豊富な現代では肥満や2型糖尿病のリスクを高める要因として作用しています。(4)
Q2. なぜ人間は塩分を過剰に摂取してしまうのですか?
A. 初期人類は長時間の狩りで大量の汗をかき、塩分(ナトリウム)が失われやすい環境にいたため、塩の味を強く好むように味覚が進化しました。この嗜好は現代にも遺伝的に引き継がれており、必要量以上の塩分を摂取しがちです。過剰な塩分摂取は高血圧の主要なリスク因子となります。(5)
Q3. 進化のミスマッチ仮説とは何ですか?
A. 進化のミスマッチ仮説とは、人類の遺伝的な特性が過去の環境に適応したものであるのに対し、現代の生活環境が急速に変化したことで、その適応が逆に健康上の問題を引き起こしているという考え方です。肥満、心臓病、鬱病などの現代病がこの「ミスマッチ」によって説明できるとされています。(3)
Q4. ストレス反応が鬱病につながるのはなぜですか?
A. 人類は捕食者から身を守るために「闘争か逃走か」というストレス応答システムを発達させました。このシステムは本来、短期的な危機に対処するためのものですが、現代の慢性的なストレス環境(仕事、人間関係、情報過多など)によって常時活性化してしまうことがあります。コルチゾールなどのストレスホルモンが長期的に高い水準で分泌され続けることで、脳の機能に悪影響を及ぼし、鬱病や不安障害を引き起こす可能性があります。(6)
Q5. ゲノム解析は今後の健康管理にどう役立ちますか?
A. ゲノム解析技術の進歩により、個人の遺伝的な疾患リスクを事前に把握し、それに応じた予防策や治療法を選択する「個別化医療(プレシジョン・メディシン)」が現実のものになりつつあります。例えば、特定の遺伝子変異を持つ人には特定の薬剤がより効果的であることが判明するなど、「一律の治療」から「その人に最適な治療」への転換が進んでいます。
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著者
医学博士 富金 起範
筑波大学大学院 生体統御・分子情報医学 修士/博士課程卒業
2017年に国内初となる微量DNA解析技術(特許7121440)を用いた出生前DNA鑑定(特許7331325)を開発
【参考文献】
(1) 学研×朝日新聞 キッズネット, 2021年10月(2) Nat Genet, 2010年11月
(3) Arch Pediatr (N Y), 1961年12月
(4) J Hum Hypertens, 2009年6月
(5) Arch Gen Psychiatry, 2005年6月
(6) Nat Med, 2010年5月